蔵元日記

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2022/03/11

米作りを始めた理由

どうして米作り始めたんですか?とよく聞かれます

ひと言・戦時体制の中、1942年に出来た食糧管理法のもと、日本では農業と酒造りは分離し、農業、つまり、米作りは農家さんのみが出来るものでした。酒蔵は自ら原料米を栽培するのではなく、農家さんが作ったお米を農協(JA)さんから購入するしかなかった期間が長く続きました。現在でも米作りから行う酒蔵が少ないのはこのことにも理由のひとつのようです。

 

様々なことが重なり合い 泉橋酒造における米作りが始まりました

今が現在(2022)なので 27年前の話になります。

私が大阪で働いていた1994年(平成6年)当時、有名な漫画家・尾瀬あきら氏が描いた漫画『夏子の酒』がドラマ化されテレビで放映されていました。そのドラマは、酒蔵の跡継ぎである主人公・夏子さんが酒造りを”米作りから”始めるという物語で、個人的には主人公役の和久井映見さんにとても感銘を受けていました。(笑)

そして、この翌年の1995年は、1月17日に阪神淡路大震災が不幸にも発生し、未曽有の大災害となった年でも。災害を目の当たりにした私は、家業を継ぐ覚悟を決めて4月に泉橋酒造に入ることになりました。

 

実家に戻ってみると、、、

そして、更にこの1995年、戦後の日本農業にも驚くことが起こります。

それは、戦時中の1942年に制定された食糧管理法という法律が平成の規制緩和の流れで廃止に。この法律は、お米の流通を規制していたもので、農家さんの作ったお米は、すべて農業協同組合(JA)を経由しないと私たち酒蔵は買えない、というものでした。つまり、栽培されたお米は、農家→JA→酒造組合→酒蔵という流れで売買され、自分で栽培したお米でも簡単には自分でお酒に出来ない、ということ。

その昔大学の卒業論文でも日本酒業界のことを調べていた私は、この法律が廃止になり、お米の流通が自由化されることにとても驚いたものでした。すぐさま関係する酒造組合やJAさんに出向き、本当に自分の育てた米で酒が出来るのか、聞いて回った記憶があります。彼らの回答は、大丈夫だと思うが前例がない、というものでした。

インターネット元年に邪な企画が登場。

さらに偶然なことはまだ続きます。1995年はWindows95が発売され「インターネット元年」と云われた年でも。現在に続くIT革命が広く一般化するスタートでした。その年、新しいものが好きな私はさっそく泉橋酒造としてもホームページ制作に着手。そして、ページ構成の企画を練っている中、”消費者が参加できる企画”も盛込みたいね、そんな話になりました。

そこで私は何か良いアイデアがないかと考えました。

そうだ食糧管理法が廃止になり、来年から自分の米で酒が造れるようになる、消費者を交えて米作りから酒を造る企画は、地酒のイメージとは程遠い、いや全くない神奈川県の酒蔵にとって、マーケティング的に面白い企画になるのではないか!と考えた次第でした。

個人的には気乗りのしなかった田んぼでの作業は、少しだけ邪な気持ちも感じつつ「あなたの酒を作りませんか」という企画で、泉橋酒造の初代ホームページに中に登場し、消費者参加型イベントとして記載されたのでした。

 

新聞掲載が泉橋酒造の背中を押した!

これは、田植えや草取り、稲刈り、酒蔵体験、そして、お酒のネーミング決め、といった今でも通用する画期的な?企画でした。1996年春に出来上がったホームページはまだまだ世の中では珍しかったようで、驚いたことに日経流通新聞などのニュースとして複数取り上げて頂きました。そして、田植えのイベントを知った方から参加希望の”電子メール”がたくさんポストに。

ついにこの新聞掲載によって、私たち泉橋酒造は背中を押されるかたちで、晴れて1996年6月の100名ほどのお客様が参加する田植えイベントの開催に繋がります。

これが、今も27年続く泉橋酒造の米作りの始まりです。下に当時のホームページの企画案内を紹介します。

(写真)1996年当時のホームページより

余談ですが、実は海老名に帰りたくなかった2つの理由がありました

実家に戻らなければならなかった私には、どうしても気乗りしないことが2つありました。1つは、実家の所有する田んぼでの米作りをやらなければならないこと、もうひとつは、ボランティア活動の消防団に入らなければならないことでした。

この作る米は食べる米のことで、酒米ではありません。特に米作りの手伝いは昔から嫌いで、高校や大学の時はバイト料をもらってやっていました。田んぼはいつかはテニスコートにでもしてしまおう、なんてことも(真剣に)考えたりもしていました。

また、消防団には入りたくない理由が。それは昔の見ていた地元での風景から。近所の消防団員の先輩方が、日夜消防操法大会の訓練に励む姿が私には向かないな~という感じだったのです。

しかし結果として、有難いことに参加表明を告げる電子メールに勇気づけられて、私は米作りのスタートに若き闘志を燃やしたのでした。当時のうちの社員には農作業を知る者も多く、おかけさまでイベントはとてもスムーズ運びました。

もうひとつ、闘志を燃やした理由があります。

それはその昔私の父親(社長)が自分の田んぼで栽培した米で日本酒を造ろうとしたら、法律に阻まれて出来なかった、という苦い家族の経験も影響していたように思います。こんな思いもありつつ、橋場家として、そして、泉橋酒造としての酒米作りが始まったのでした。

(別で後述しますが、その後、結果として泉橋酒造のお米の契約農家さんになってくれた方々は、なんとすべて私が入団した海老名市消防団の先輩たちでもありました)

ここからの次の流れ、契約農家さんたちとの出会いは次に続きます。 蔵元・橋場友一

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